TDSはUltra Trail du Mont Blanc (UTMB)の一部門だ。UTMBは6部門あり、有名なUTMB (166km)以外にCCC (101km), OCC (55km), TDS (121km), PTL (300km), MCC (40km)がある。CCC, OCCはUTMBの短縮版である。TDSは独自コースで、険しく、景色が美しいことが特徴らしい。
昨年妻がCCC, 私がUTMBを完走し、それは素晴らしい思い出だったのだけど、どうにも心残りがあった。第一に景色を楽しめなかった。私は完走に40時間を要したので、午後6時に出発し、2日後の午前10時にシャモニーに帰ってきた。なので、レースの時間の大半が夜で何も見えない。美しいモンブランの景色をもっと楽しみたかった。
妻と私が別々の部門に出たのも残念だった。レースの日が異なるので、妻がレースをしている姿は全く見ていない。せっかくシャモニーに行くのだから一緒に体験を共有したいものだ。
TDSに二人で出たら楽しいし、景色は綺麗だろうし、110kmと短いので気楽なものだろうと2018年のTDSにエントリーした。(注:実際には120kmだったし、相当きつかったので色々勘違いしていた)
今年のレースは初日の午後から夜にかけて雷雨の予報だった。そのため、スタートを2時間遅らせ中盤の難所を迂回するコースに変更となった。中盤の難所を意識して練習してきたので、なくなったのは残念だ。
朝6時の大会バスに乗りクールマイヨールに向かう。幸い晴れている。賑やかなMCと音楽で気持ちが盛り上がる。妻は緊張して硬い表情だ。号砲が鳴りレースが始まった。可愛らしいクールマイヨールの街を抜けトレイルに入る。皆ペースが早い。どんどん抜かれるが気にせずマイペースで進む。緩やかな走りやすい登り坂に入る。おそらくクロカンスキーのコースだ。傾斜が緩く楽だが長い。ただひたすら登る。渋滞がひどく、抜かれるのが嫌で途中のウォーターステーションは無視した。前の方で歓声が上がった。聞くと、マーモットがいるらしい。確かにマーモットが2匹いる。フランス人は4匹だと言う。マーモットを見るために立ち止まるとどんどん抜かれた。意外と窮屈なレースである。一山超えてLac Combal (16km)に入る。何と美しい湖水地帯だろう。この辺りは去年のレースでも通った。去年は一晩動き続けてCol Seigneを超えた後にこの光景が眼前に広がり感激したものだ。
ここからは急な上り坂だ。妻は軽快に登り先行していく。砂礫の多い急斜面を黙々と登っていく。そこからは緩やかで長い下り坂が続く。下りきった先には小さな湖があった。よくビデオや写真で見る風景だ。確かに写真映えしそうだ。そこから1時間ほど登りSaint Bernard (36km)に入った。牧場に作った小さなエイドで、コーラが美味しかった。
ここから先は15kmで高度を1000m下げる区間だ。長距離レースは下りのダメージで壊れてしまう。はるか遠くの街を見下ろしながらジョギングする。2時間弱かけてゆっくり降りた。周りには歩いている選手をちらほら見かけるようになった。
Bourg Saint Maurice (51km)は街中のエイドでお祭り騒ぎだ。まだ前半なのに脚が重いと感じた。妻も辛そうだ。腸脛が張る、と言いながら臀部をさすっている。解剖学的におかしい気がするが。とにかく横にならせてマッサージした。元気になったようで、出発して程なく置いていかれた。
さて、ここからが変更コースだ。本来は1800m登りつづける難所だが、悪天候のため迂回コースとなった。上昇量は1200mほど、水平距離は20kmだ。雨が降り出し、遠くから雷鳴が聞こえてきた。雨具を着込む。程なく日が落ちた。里山を登ったり下ったりするのが続き意外と苦しい。舗装路に出た。次のエイドまで相当近いはずだが見えない。舗装路をひたすら登る。いつになったら着くのか。黙々進んでいると妻に追いついた。だいぶ辛そうだ。30分ほどでCormet de Roselend (67km)に着いた。
4時間以上かけてたどり着き、ゆっくり座って食事や荷物整理をしたいところだ。Cormet de Roselendはこのレースの大エイドでドロップバッグ(預け荷物)を取り出すことができる。きっと大きく立派なエイドだと期待していた。しかし、意外と小さなテントでさながら野戦病院だ。疲れ果てた選手が椅子をならべて寝てたりするので、テント内に座る場所を見つけられなかった。やむなく屋外に椅子を確保し二人で座った。まだ午後9時だし雨もやんだ。野ざらしでもそれなりに休憩できるだろう。
このエイドのスペシャル料理であるパスタをもらったが、まずい。本当にまずい。なのに特盛だ。それでも栄養をつけるためだと黙々と口に押し込む。妻を見ると、しんどそうだしパスタも進んでいない。リタイアしようかな、と言い出した。医療ボランティアの人が心配して妻に医務室で診てもらったら、と声をかけてくれた。乗り気でない妻をテントに行くよう説得した。そしてパスタの残りを何とか完食した。妻を待ちながら状況を整理する。予想よりだいぶバテているし、遅れ気味だ。当初の目標である24時間切りは不可能になったが、特に完走が危ぶまれるような時間ではない。体に大きな問題がなければ完走に支障はないはずだ。医務室では日本人のスタッフにいろいろとマッサージをしてもらったらしい。30分ほどで出てきた。目標を再設定して二人で完走を目指そうと説得すると納得してくれたようだ。医務室の処置も良かったようで元気を取り戻したようで再び置いて行かれた。
ここからCol du Joly (86km)までの19kmは苦難の連続となった。登りも下りも大きくて脚に堪える。途中、噂の断崖絶壁をくりぬいたような道を通った。ヘッドランプの光が谷底に届かないが、相当深そうだ。きっと日中に通ったら絶景だったろうに。湿地帯に入り、あちこちの泥沼に足を突っ込み靴がズブズブになった。霧が濃くなりともすれば道を見失いそうになる。いつになったらエイドに着くのか。胸の携帯が鳴り、大会本部から悪天候で大会を中止するメールが来たのかな、などと夢想する。発動機の音と光が近づき遂にエイドか!と思うと牛小屋だった。10頭ほどの牛の間を縫うようにして進む。牡牛が鼻息荒く、怒って突進してきそうで怖かった。ヘッドランプを付けた馬鹿者が一晩中次から次へと鼻先を通るので牛が怒って当然である。
艱難辛苦の末、霧のなかからCol du Joly (90km)が現れた。なんとこの20kmに7時間もかかっている。きつかった。気分が悪く食事が進まないが、ここでもらったお米入りスープはおいしかった。フランスに来てからライスプディングやこのスープみたいにいろんな米の食べ方を知った。椅子をほかの選手と取り合う窮屈なエイドなので用事がすんだらさっさと出発した。
このあたりから足の裏の痛みが耐え難くなってきた。下りを急ぐと痛みがきつい。下りが遅いので妻に心配された。10kmで高度を1000m下げる区間だが、はかどらない。ようやく街に出た。夜が明けてきた。街中を延々と走りContamines (100km)に入った。
エイドで靴下を脱ぐとまあなんということだ、両踵と母趾に大きな水ぶくれができていた。どうりで痛いわけだ。人生で初めて医務室を利用することにした。医務室の先生は親切で、汚い足をものともせず水ぶくれの水を抜くなどの処置をしてくれた。私はこの程度のことでお手を煩わせてすみません・・・と恐縮して医務室に入ったのだが、結構医務室をカジュアルに利用する選手が多いようだ。隣のフランス人選手は堂々とリラックスして水ぶくれの処置やらマッサージやらしてもらっている。話すと、私の初めての100マイルレースであるUltra Trail Tai Mo Shanにこのフランス人も出たことがあると分かり話に花が咲いた。
すっかり日が昇った。ここから先の15kmが実質的な最後の難関だ。気温が上がり汗が出てくる。あっという間に水がなくなったが問題ない。あちこちの村に共同水汲み場のようなものがあり、水は汲み放題だ。きつい上り坂を1時間ほど進むとアルプスらしい花畑が広がった。広々した草原を進むと最後の難所、Col Tricotへの登り道が現れた。岩の多い急斜面の遥か上に鞍部が見える。あそこまで登るのか。弱気になると妻がこんなん千畳敷カールみたいなもんやろ、という。景色は似てるけど、高度は5倍以上ありそうやで、と弱音を吐くと上とか見たらアカン、と励ましてくれる。長々と続く艱難辛苦の末、Col Tricotを極めた。曇りが一瞬晴れてMont Blancが見えた。
相変わらず下りで足は痛むのだけど、ゴール時間を考える余裕が出てきた。休みなくジョギングし続ければ29時間台でゴールできそうだ。頑張ろう、と妻と話したのだが、結局私が遅く妻にペースを作ってもらいながら進む展開となった。早く次のエイドに行きたいのだが一筋縄ではいかない。ここの下りは道が悪く捗らなかった。途中、「最大2人まで」とある頼りない吊り橋がありなかなかのスリルだった。
町に降りて、Le Houches (116km)に至る。29時間台でのゴールは可能だ。てきぱきとコーラを流し込み出発する。ゴールまで8kmなのでここで休む意味はない。UTMBの序盤で通った道を逆走していく。懐かしい。よくここまで来れたものだ。今回は二人でなければここまで来れなかったかもしれない。そんな感慨に耽りながらジョギングしていく。
この最終盤になり妻がバテてしまった。何度か私がペースを作ってみたがもう走れない。30時間切りの目標は果たせなくなりそうだ。しかし、数字にとらわれるのもよくない。山野井泰史さんが書いていたが、ゴールそのものよりゴールに至る過程に幸せがあるのだと思う。30時間のことは忘れてゴールまでの過程を味わおう。
シャモニーの街中にたどり着いた。民家の前に選手を応援するイラストが掲げられていた。道行く人に祝福されながらシャモニーの目抜き通りを進む。ゴールゲートが近づくにつれ歓声が大きくなってくる。またあのUTMBのゴールゲートを、今度は夫婦でくぐれるなんて何という幸運だろう。二人で手をつないでゴールゲートをくぐる。石田家の30時間7分にわたる冒険が終わった。